What’s Eurythmie
オイリュトミー:Eurythmie とは・・・
20世紀初頭にドイツを中心に活動した思想家 ルドルフ・シュタイナー によって基礎づけられた身体技法・身体芸術です。
その名称は、ギリシャ語の [ ευ (オイ):善い・美しい・調和した ] という接頭語と、「リズム」の語源である [ ρυθμός (リュトモス):姿・形・律動 ] という語からなる造語で、「美しい律動」 、あるいは「調和的な形姿」という意味を持ちます。
オイリュトミーの基礎課程 (四年制の専門学校)を修了した専門家は オイリュトミスト と呼ばれます。
日本では、1991年に舞踊家の 笠井叡 によって オイリュトミーシューレ天使館 が東京・国分寺に開校され、これまでに多くのオイリュトミストを輩出しています。
人間の喉から発せられる声の響きを、「生きた形=リュトモス」として表すオイリュトミーの動きは、古代ギリシャの神殿舞踊に由来している?
その身体育成法は、古代ギリシャの都市国家アテネで行われていた「ギムナスト[ Gymnast:体育教師 ]による教育」から大きな影響を受けており、その教育は、日本の武道のルーツとも関連があると言われています。
そこでは子どもの成長過程に応じて、言葉のリズムや響き、音楽のメロディやテンポに合わせた舞踊の修練と、実戦的な格闘術の鍛練とが行われていたと言います。
そのギリシャ時代の身体育成観を基に、シュタイナーは現代における教育課程のなかに「教育オイリュトミー」を組み入れた小さな学校を、1919年にドイツのシュトゥットガルトで設立しています。
オイリュトミーには主に、芸術、治療、教育 といった分野があります。
大きな柱として「言葉のオイリュトミー」と「音楽のオイリュトミー」の2つがあり、言葉のオイリュトミーでは母音や子音の響き、音楽のオイリュトミーではリズムや音程、ハーモニーなどに基づいた動きを、朗唱される詩歌や文学作品の声の響き、ピアノや弦楽器などによる楽曲の生演奏と共に動きます。
「眼に見える言葉」「眼に見える歌」と例えられるその動きは、言葉の持つ「意味」としての側面よりも、発せられた母国語の声の「響き」と本来的に結びつき、呼吸の力を通した身振りとして行われます。
言葉や歌が古来より人間の内面活動と深く関わり、その時代や文化圏によってそれぞれ固有の現れ方をするように、オイリュトミーの動きの内実は、日本語、ドイツ語、イタリア語、英語などの民族言語、またその時代、文化によって異なります。
このことからオイリュトミーは、言葉や音楽のダンス的な表現であること以上に、呼吸や発声のエネルギーと結びついた動きを通して、その時代や民族の言葉・音楽を現代において「再び生きる」と言うことができます。
コンテンポラリー(同時代的)であり、新古典的 であり、また 教育的 な 身体芸術 としてオイリュトミーを位置付けることもできるでしょう。
「全人的」な身体運動芸術?
オイリュトミーには、人間全体を3つの部分に分けて捉える身体観があります。
人体の各部との対応で言えば、頭部=精神性、胸部=感情など心の働き、腹部消化器系・肢体系=物質に関わる肉体、となります。
中世のヨーロッパのある時点までは、人間の存在は 霊(spirit)、魂(soul)、体(body) の3つから成っていると考えられてきました。
西暦869年のコンスタンティノープルの公会議で、キリスト教会は、霊は神=教会に属するものとして人間の存在から外し、人間は魂と肉体の存在である、と定義したと言われています。
このように人間全体を、霊(spirit)、魂(soul)、体(body)として捉え「全人的」身体観は「人性三分説」と呼ばれ、プラトン思想やグノーシス主義、日本の神道などにも広く見受けられます。
その身体観の一つに、「個人の身体」と「社会の身体」という捉え方があります。
私たちの身体を観るとき、発声している喉や、世界を知覚している眼、耳、鼻といった個人の体の部分だけでなく、その発声された声によって形づくられている空間、あるいは視る、聴く、触れるといった「感覚の働き」を周囲に拡げていくことで生まれる空間をも、人間のカラダ、周辺に拡がっている 社会的な身体空間 として考えます。
また、空間性 という観点からオイリュトミーを捉えたとき、人と人との「間」の空間と、それぞれの人の「想い」との関わり方が「社会の身体」にとっては重要になります。
身体と身体の間の物理的な「ディスタンス」だけではなく、周囲に向けて生き生きとひらかれた「意識」を通して、空間や他者との「間の関係性を創る方法」という意味で、オイリュトミーは新たに「場」を創造する芸術、「社会芸術」であると言えます。
人と人との結び付きや、「場」をつくるという在りかたが根本的に変わっていこうとしている今日、関係性の芸術 である「社会芸術(Sozialkunst)」としてのオイリュトミーの在り方もまた、常に新しく産み出されなければならないと感じます。