『カラスの対話』シリーズ

『カラスの対話』Vol.3
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    時々刻々

 

 

 

S「こんばんは。」

 

 

 

 

K「今晩は。

『カラスの対話』またしばらく空いてしまいましたが、今日は 5/14 です。」

 

 

 

 

S「そうだね。

時事になっちゃうけど、昨日13日に中国吉林省で、再びロックダウン が始まったみたい。」

 

 

 

 

K「そう⁈

日本は今日39県で緊急事態宣言が解除されましたが。

中国では第二波?」

 

 

 

 

S「のようです。何故かメインメディアではあまり報道されず。

タイランドメディカルニュースが報じてたのかな。

パッと見は武漢並みの封鎖で。」

 

 

 

 

K「そうか・・・

第二波、第三波が来るかもしれないとは言われてるよね。

一つの国で封じ込めても、また世界のどこかで再び感染拡大したりする可能性が高いわけで。」

 

 

 

 

S「未感染の人がいる限りこの状態は続く、という見解もあり、ウィズコロナ という言葉がますます現実味を帯びてきている感じがあるよね・・・」

 

 

 

 

K「ちょうど昨日、落合陽一さんの番組 WEEKLY OCHIAIを観ていて、様々な分野の研究者や大学教授がゲストでさ。

すごく面白い番組で時々観るんだけど、今回の新型コロナによって パラダイムシフト は起こるか、というようなテーマで。

それでこと日本においては、これまでの歴史を振り返っても、そう世の中が急変することはないだろうという読みをするパネリストもいたりして。

でも中長期的な観点からすると、コロナショックの全貌がまだ見えてない現時点では判断出来ないとか。

で、いまは主に先進国で急速に感染が拡大したけれど、これからアフリカや南米で拡大する可能性も言われてたね。

やはりまだ世界規模で考えると、一国の一都市のロックダウンが解除されたとか、緊急事態宣言が解かれたといっても、しばらくは 流動的な世界 が続くだろうとは思うな。」

 

 

 

 

S「そうだね。

中南米とアフリカは、今どんどん増えてるね。あとロシアはアメリカの次に多い。

でもロシアは、感染が増えているにも関わらず、解除に向けて動いているよね。

流動的な世界だし、個人も国単位でも 様々な見解、様々な態度 があるという意味でも、かなり流動的。

クラゲなす漂っている。」

 

 

 

 

K「そう、人との関係性、情報の受け取め方、政治との関わり方、社会生活のあり方、自然との向き合い方・・・

さまざまな位相で個々人の決定的な差異 というのがこれから眼に見えて現れてくると思うな。

それはどこか 東日本大震災 の時の状況にも通じるかもしれない。

どうその多様で流動的な世界に立つか 、ということを考えるね。

このコロナの影響が日本の社会のなかにリアリティを持って受け止められるようになってからまだ二ヶ月少し・・・

その間でも日々ずいぶん変化している。」

 

 

 

 

S12月はまだまだだったね。

3月の始めくらいから、舞台関係でも、『これは』という感じが出てきて・・・」

 

 

 

 

K「そうだね。」

 

 

 

 

S「確かに、世界の雰囲気も、それを感じる 自分の皮膚感覚も、日々刻々と変わっていく 。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    自己肯定感の無い社会構造、メディアというウイルス

 

 

 

K1ヶ月前にこの『カラスの対話』をした時は、緊急事態宣言が発令された直後だったけれど、それから今まで、生活とか活動とか、どう変わって、これからどうなるか、っていうのは、サダさんとしては。

個人的なことでも。」

 

 

 

 

S「うーんと。

具体的なこともいろいろあるけど、内側のことで言えば、基本的に持っていた感覚が、今回のことでさらに強くなったかな。」

 

 

 

 

K「基本的に持っていた感覚?」

 

 

 

 

S「基本的に、というより、以前からいわゆる社会に対して持っていた、というべきか。

例えば、様々な側面に対する独立性を求める 、とか。」

 

 

 

 

K「独立性というと?」

 

 

 

 

S「具体的なものはそれぞれにあるけど、例えば、感覚的なことで言うと、あれが無ければ生きられない、これが断たれたら生きていけない、ということではなく・・・

それは、食糧なのかもしれないし、経済的なこと、エネルギー的なことも含めて。

で、それに関連して、例えば、コンビニが空いてなかったら、とか、スーパーが売り切れだったら、とかいろいろあるけど、今の社会構造って、根本的に不安感で成り立っている 、ということを最近あらためて痛感して。

それが、今回のコロナのことで一層浮き彫りになった。」

 

 

 

 

K「そうだね。」

 

 

 

 

S「何故それを痛感したかというと、この状況はシュタイナーの言っている 意志の教育 の正反対。

自己肯定感が持てない世界 だよね。

何もなくとも、世界がどうなろうとも、わたしは生きているし、わたしは大丈夫、という感覚が全く生まれない。

というと言い過ぎかな。」

 

 

 

 

K「確かに、子どもを育てる環境 という観点からすると、今こういう東京のような大都会で、どんどん 非接触型社会 となって、そのなかで人々が醸す世の中の空気っていうのは不安感でしかないよね。

世界を肯定する力を削いでゆく 、というのか。

生命の力に触れられなくなってゆく というのか。」

 

 

 

 

S「そう。

それから、ウイルスという生命体の特性がそれに拍車をかけていて。

つまり、公衆衛生の社会通念 と、ヒューマニズム

と、そこから生まれてくる 全体主義の気配 が。

でも、これは都会に限らず、メディアとの向き合い方 も関係しているとは思っている。」

 

 

 

 

K「うん、メディアの力は大きいよね。

メディアもある種のウイルスで

そのことで言うと、こないだこの対話の中でも言ったけれど、身体的直観 よりも、今はどんどん 外からの情報 によって 人の意識のあり方が作られ ていって、悪魔の証明ではないけれど、もしかしたら『あなた、感染しているかもしれませんよ』という言われ方をすると、常に自分のなかに疑念を持たされる 、自己肯定する力を奪われる、あるいは、そういうポジティブな力を 否定しようとする意識が蔓延 してくる、というのか。」

 

 

 

 

S「確かに。メディアというウイルスだね。

情報 、というべきか。」

 

 

 

 

K「そう。一人一人が 何を 自分のなかで 確信の根拠にしているのか

その辺りが、揺らがされている状況。」

 

 

 

 

S「身体的直観、ということで言えば

そういう状況の中での身体的直観の発露を見たよ。」

 

 

 

 

K「それはどんな?」

 

 

 

 

S「社会的にはどうなのかは別として、最近渋谷とか新宿をたまに歩くと、当たり前だけどみんなマスクしてる。

そんな中を、1人2人の中高生が、マスクせずに歩いているのに出会う。

中には、たぶん飲酒してるのもいれば、タバコのもいる。

いずれにしろ、いわゆる社会に反している。

そんな彼らを、自分のいわゆる社会通念を脇において純粋にそのありようを見ると、何というか、ひょっとしたら彼らの方が健全で、こちらが不健全なのでは?という風に見えてくる。

彼らはおそらく、無意識に自分の身体的直観に従っている 、もしくは、従っていたいのかな、という感じを受けて。」

 

 

 

 

K「それでいうと、最近引っ越してきた西八王子はマスク率がかなり低くてさ。

駅前のベンチでけっこうなお年寄りもワンカップ片手にマスクもせず仲間同士で昼から飲んでたりするね。

目の前に交番あるんだけど。

まあ、若者が周囲の人を気にしないで傍若無人に振る舞う、というのはいつの時代にもあると思う。

でも、身体的直観っていうのは、そういう無意識的な振る舞いということではなくて。

あるいは、これくらいの高さから飛び降りたら怪我するとか、これ以上車のスピード出したら事故るとか、そういう経験から来る生命の危機を察知するみたいなことでもなく。

言ってみれば、能動的な身体 を直観しているか。

動くにしても 、

動かないにしても 

あるいは何かに動かされるにしても

そもそも そこに自己の能動性があるか 、という意味で。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    死生観

 

 

 

K「ゾンビ映画とか、ディザスターものとか、00年代以降ってハリウッドでも ディストピア を描く映画が多くなったように思うんだけど。」

 

 

 

 

S「多いね。」

 

 

 

 

K「そういうハリウッド映画のエンディング、けっこう絶望的な終わり方が多くてさ。

で、なぜ絶望感を持つのかなっていうと、生命以上の人間の価値 を、映画の登場人物が持ってないように描かれているんだよね。」

 

 

 

 

S「なるほど。

逆の意味でのヒューマニズムという感じが。」

 

 

 

 

K「いや、むしろ生命至上主義というのか、いわゆるヒューマニズム以上の価値を持っている人間を描かない。だから、それが 奪われることへの恐怖 の方が強いんだよね。

でも、近代以前の日本文化 というのは必ずしもそうではないじゃない?

たとえば、明治維新の頃の 堺事件 のような、切腹 して生命を捨ててまで 魂の尊厳 を守ろうとする行為は、西洋的なヒューマニズムの価値観 を転覆させる。

そういう行動様式が日本の文化のなかにはあったわけだよね。」

 

 

 

 

S「今、まさに 死生観 のことを考えていました。日本文化の。」

 

 

 

 

K「そう、死生観がいま、ますます画一化されていっているような気がして、だから、ウイルスにしろ、ゾンビにしろ、エイリアンにしろ、人類にとって未知の外敵みたいなものに生命を脅かされると、ハリウッド映画のような パニック反応 を起こす。

それは 不安と恐怖 という感情で。

生命以上の尊厳 というものが、人間の文化、社会から 剥奪 されていってる気がするんだよね。」

 

 

 

 

S「第二次大戦時、アメリカが一番恐れていたのが 日本人の精神文化 で。

戦後の日本に対して、いかにその部分を 意図的に破壊 するか、ということを作戦として行なっていた記録がある。 

それが今も、続いている。

それはアメリカが、ということではなくて、その形は変わっても、透明な気分として 社会に浸透して 蔓延ってる 。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    吸血鬼化する時代

 

 

 

K「身体的直観の話しから少しズレるけれど。」

 

 

 

 

S「はい。」

 

 

 

 

K「オンライン化してゆく社会って、どこか ドラキュラ的な力 を感じるなと思って。

血液を吸い、物質の不死、永遠の生命、っていうのをデータベース化することで行なってるような。

ドラキュラ好きだけど。」

 

 

 

 

S「非常にわかります。

ごく個人的な感覚では、スイカでタッチする時に、何か吸われる感覚 が。」

 

 

 

 

K「それはヤバイね・・・

で、それに対して、さっき言ってた 武士の腹切り や、あるいは アステカの時代 のような 祭祀的な儀式 のなかでは、血の供儀的な意味 が生きていた。

それは個人の生き死に、というだけでなく、大地に血が流れる、ということのほんとうの意味というのか。

それが失われてゆくという意味で、時代はドラキュラ化 していて、そういう身体は、神経の方に青ざめてゆく と思うんだよね。

で、青ざめるというのはやっぱり恐怖とか、不安心とか。そういう魂の状態の身体で。

そういう 青ざめた身体 が増えるほど、身体のオンライン化、データ化は加速すると思う。」

 

 

 

 

S「なるほど。

大地に血が流れるということと、血の意味が失われる 、という視点は無かったな。

でも、よくわかります。」

 

 

 

 

K「それで、ゲーテ のファウストの中に出てくる 悪魔メフィストフェレス の言葉で『血は特製のジュースだ』というのがあるじゃない?」

 

 

 

 

S「ありますね。」

 

 

 

 

K「古来より、供儀の血っていうのは、大地、自然界、神々、つまり 地球の生命の豊饒に捧げられていた 側面があるわけで。

かつてはそれは物質的な血を流すことでも 贖罪的な意味を持っていたと思う。

でも、その物質としての血を流すのではなく、純粋な血の力 、よく血と汗の結晶、という言い方するように、それは物理的な血と汗ではなくて、人間の血液の中に流れている力 と、汗を生じさせている身体の 内なる発熱過程の力 を、心臓の熱の力 としてどんどん 身体の外に 広げていかないと、このドラキュラ化してゆく力に耐えられない、っていう感じがして。」

 

 

 

 

S「はい。青ざめる、不安感の対極 としてね。」

 

 

 

 

K「そう、ドラキュラ っていうのは、非接触型で、人と人との間の生命の熱を吸い取って、オンライン化しやすい社会空間 をつくっている元にある不安とか恐怖、青ざめさせる力 で。

キリストのネガ 。」

 

 

 

 

S「映像も、それ自体は熱は感じないですね。

かなり身体感覚的な イメージの力 を使わないと。」

 

 

 

 

K「それで、身体芸術 っていうのは、この血の力、血のなかに流れている熱、人間の自我の力 が消えたら、極論、もう アバター芸術 でいいんじゃないかと思ってしまう。」

 

 

 

 

Sアバター になりそうですね、そのうちに。

さっきの身体の発熱過程と言えば、人間は肉体的には動かなくても、内的な経過 を通しても発熱するね。

例えば、恋愛とか、恥ずかしさとか、あるいは怒りとか。

そういった内側の働きでも。」

 

 

 

 

K「そうだね。

心も、ぬくもりとか、温かいとか冷たいとか、熱感で表現するよね。」

 

 

 

 

S「そう。そこの部分、言ってみれば 魂の熱が抜けている のかな。

今の時代の感覚には。

しかし、アバター芸術 、って恐ろしい単語だな、と思ってしまった。」

 

 

 

 

K「もはやそれは芸術なのか何なのかわからないけど、人間のアバター化ということは、これからどんどん進むと思うな。」

 

 

 

 

S「意識と物理的身体の動きは、おそらくすぐオンライン化されると思う。」

 

 

 

 

K「きっともうされつつあるよね。

本来なら、身体芸術からもっとも遠い世界。」

 

 

 

 

S「あとは、心の熱の部分 をこれからオンライン化しようとするのか、切り捨ててしまうか。という気も。

霊・魂・体 という考え方があるけど、かつてキリスト教では、 の部分を神に属しているものとして 人間から切り離した

その時の コンスタンティノープルの公会議 (869年)で、人間は魂と肉体の存在である 、と定義された。

キリスト教が 神の側に切り離した霊の部分 が、今の時代には AIテクノロジーに組み込まれて、オンライン化していく社会状況の中でさらに心の部分も切り離されて、さっき言っていたように、人間は体の部分しか無いかのようになっている 、と思った。

全体主義的な雰囲気から似たようなものを感じるのは、地獄 に落ちる、という不安や恐怖と、信じれば天の国に召される 、という解決。

なんだか、状況や人間の在り方は全然違えど、いわゆる宗教的なものと現在の内的な不安感、あまり変わらないのではと思ってしまった。」 

 

 

 

 

K「うん、きっとこのコロナで新興宗教とか入信する人も増えるような気も。

都市伝説の関暁夫 が、精神テクノロジー文明の到来 とか、新たな仮想空間を「天津の世界」って言っていて。

その空間へは個の人間、一人一人が神格化されないと入れないとか。

都市伝説の第7巻、かなりすごい内容だよ。」

 

 

 

 

S「そうなんだ。

それもすごいな。

そう言えばこないだ街で、オリラジ中田の広告が電柱にあった。

QRコード付きの、幸福の何とかとか。知ってる?」

 

 

 

 

K「本?」

 

 

 

 

S「いや、見た目は宗教の雰囲気で。

調べてみようとは思っている。」

 

 

 

 

K「そうなんだ。

中田YouTube大学、好きでよく観てるよ。」

 

 

 

 

S「鷲のロゴだった。

その時はちょっとQRで飛ぶ勇気が無く。

宗教ではないだろうけど。

そんな雰囲気が。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    身体芸術展望

 

 

 

K「話しは戻るけど・・・」

 

 

 

 

S「関の空間の話?」

 

 

 

 

K「いや、オンライン化の話し。」

 

 

 

 

S「はい。」

 

 

 

 

K「これまで言っていたことと矛盾するようだけど、オンライン化それ自体は、時代の必然 だと思って、それを否定する気も批判する気もなくて。」

 

 

 

 

S「うん。」

 

 

 

 

K「むしろ、実際にいま自分も日々オンラインで仕事をしているし、オンラインで人とコミュニケーションし、オンラインで社会の情報を得ていて。

この『カラスの対話』もオンラインなわけで、今回のことでテレワークの普及が加速することもわかる。」

 

 

 

 

S「そうだね。」

 

 

 

 

K「ただ、身体芸術に関していえば、いま様々にオンラインでの発信のあり方が試みられてるっていうのは、言ってみればこの状況になったことで、ダンサーや劇場、それぞれの活動を絶やさないための新たな試みとして、なんとかこの状況のなかでも創造的であろうとしてやっているし、一つの新しい手段としてこの時代だからこそ模索できる方法なわけで。

そのことはとても興味深いと持っていて。」

 

 

 

 

S「それはわかります。

いろいろな手段が生まれているし、絶やさない、という意志を感じる。

ただ、ひとつ思うことが、例えばSNSでのコミュニケーションとか、誰かのアップした動画を観るとか、そういう体験を持つ時に、その人と 実際の身体的な繋がり 、会ったことがあるとか、よく話すとか、昔一緒に何かしてたとか、そういう身体的な経験の有無によって、オンライン上での体験の質が全然違う と思って。」

 

 

 

 

K「うん、それを観る側のね。」

 

 

 

 

S「そう観る側の。

それはもしかして、自分たちが、黒電話からiPhoneまで、という アナログ~デジタル~AIという時代のボーダー をまたいでいるからかもしれないけど。

そういう意味で、これからの デジタルネイティヴ 、すでにiPhoneAIのある世代の身体のことを、どうしても考えてしまう。」

 

 

 

 

K血の温もりの交流 を持っている人間関係とか、そういう体験を知っている世代というのはこれからどんどん少なくなるだろうね。

けれど、これからの時代の身体、それも、いま、すでにここに 萌芽 としてあるわけで。」

 

 

 

 

S「そうだね。」

 

 

 

 

Kこれからの時代の身体 ・・・

内閣府の ムーンショット計画2050年までの・・・」

 

 

 

 

S「はい。まもなく4時間?」

 

 

 

 

K「そうですね。この続き、密談 でやりましょう。」

 

 

 

 

S「それに賛成です。」

 

 

 

 

K「では、まもなく4時間を経過しそうなので、また近々、密談で。」

 

 

 

 

S「はい。お疲れさまでした。」

 

 

 

 

K「お疲れ様です。

ではまた。」

 

 

 

 

2020.5.14 "カラスのオンライン対話" より

*この対話はチャットによって行われたものです。

 

 

 

 

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